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元治1年9月13日(1864年10月13日)
【京】老中阿部正外、越前藩に対し、征長の指図はできないと伝える。
【江】会津藩江戸家老上田一学、東下中の守護職使者の将軍進発等の周旋の事情を京都に報じる

9/12【京】老中阿部正外、着京(13日説もあり)

☆京都のお天気:晴秋冷深加 (『嵯峨実愛日記』)
>外国処置
■老中阿部正外の再上京

【京】元治1年9月13日、老中阿部正外は、重臣との面会の調整に訪れた越前藩使者に対し、面会はするが、征長のための上京ではないので、何か尋ねられても指図をすることはできないと伝えました。

<おさらい>
阿部は、7月末に将軍の使者として天機を伺うために上京しましたが、一橋慶喜に説得され、将軍急速上洛・征長指揮を促すために、会津藩公用人野村左兵衛らを伴って、海路大坂より帰府しました(こちら)。しかし、24日に再度上京を命じられ、30日に品川出港していました(こちら)。阿部の上京について、会津藩江戸家老上田一学は9月4日付の京都への手紙の中で、表向きは外国の処置についての言上だが、その実は開港の見込みであると記しています(こちら)。阿部は、海軍操練所の軍艦で9月9日に着坂(こちら)。12日に入京しました。(勝海舟には9日、11日に面会こちら)

参考:「枢密備忘/征長出陣記」『稿本』(綱要DB 9月16日条No 5)((2018/6/6)

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■江戸の事情 by 在府会津藩・肥後藩
【江】元治1年9月13日、会津藩江戸家老上田一学は、京都藩庁に対し、東下中の守護職使者(公用人野村左兵衛等)の将軍進発等の周旋が難航する状況を報告する手紙を認めました


これまで途切れ途切れに紹介してきた手紙です。(てきとう訳。段落分けもてきとう)
(野村左兵衛によると)当月5日、柴秀治(=会津藩京都公用方)に登城するよう大目付衆から御達しがあり、登城したところ、御老中がお会いになった次第は別帳の通りである。しかし、御老中との会見については、兼てから水野様(=首席老中水野忠精)へ度々罷り出て富岡平角へ厳しく論じ置いた結果、極内々にお会いになることになったのに、秀治一人にお会いになるのは甚だ不都合であるので、水野様へ罷り出、富岡へ掛け合ったところ、行き違いがあったとの返書があった。9日お会いになるとのことで、私、富次郎(=広沢富次郎)、(柏崎)才一(=会津藩江戸留守居)、桑名様の小寺・秋山が罷り出たところ、伯耆守様(=老中本庄宗秀)・伊豆守様(=老中格松前崇広)がお会いになったので、これまでの委細を申し上げた。(老中に)御進発の件などを段々申し上げたところ、ごもっともとは言われるが「御心に入候様子」はなく、「御式一と通の御逢」だと思われる。その際言われたのは、「二百年来泰平打続、武備弛」緩のため、まず軍装御上覧という運びになったので、御進発期限は明確に言えないが、「面々心に占ひ候はヽ」大方分るだろうということだったので、近づいていると存じ奉る。尾州先様(=前尾張藩主徳川慶勝)が御総督を御請けにならぬ様子なので、「一橋様御相当之義」を申し上げたが、「御撰挙筋私共より申上候義御腹立之御様子」だった。そこで、御名(=容保)様から言われた機密の次第を申し上げると「御落意」になり、なお御評議をされると言われた。ただし、尾州先様の御病気の状態によって京都までは出張される趣、委細は(小森)久太郎が京都へ申し上げるはずだと、左兵衛が申し出、御老中様より御名(=容保)様への御書を御渡しになった由。(◆9/9)

さて、また、(江戸留守居の荒川登によれば)、一昨11日、御大目付衆より御呼出しがあったので(荒川が)参上したところ、<京都御守護職の重き御用向きにつき、早打ち(駕籠)で(江戸へ)下った者の中には、(身分の軽い)公用人調役体の者もおり、その上、(幕閣の)御役宅を訪ねるのは甚だ宜しくない。以後は、公用人に限るべし、御用向により御逢い等を願う際は、御役宅を訪ねず、(江戸城)西丸で御逢いを願えば、御逢いなされるはずである>、と土井出羽守(=土井利用)・京極越前守(=京極高朗【たかあき】)様が御出座の上、御口達があった。<このほど(=9日)、御老中方が、(8月6日に着府した公用人の)野村左兵衛等に御逢いになったが、左兵衛には(着府してから)日数が立つまで御逢いにならなかったのは、実に御用が多く、やむをえず延引になっていたもので、不快に思わぬよう申し聞かせるべし>との旨も仰せ聞かされたとのこと。(◆9/11)

これについては、左兵衛が、<この上は逗留しても他に周旋方法の見込みがないので、(老中が渡した)御書を持参して帰京し、これまでの順序を委細申し上げる方がよいのではないか>と申すので、<御上坂催促の件については、在京諸藩も東下して周旋しているというのに、御家(在京会津藩)が残らず帰京したと聞けば、彼等の意気込みもどうなることか。いずれ御出馬の御模様が済まぬうちに残らず帰京するのはよろしくない。御自分と才一は残り、秀次と富次郎は御書を持って早々に帰京し、これまでの事情を委細申し上げるよう>申し聞かせた。

(以上、9月13日付(会津藩江戸家老)上田一学書簡より)

<おさらい>
禁門の変を契機に関係が強化された一会桑は、朝廷(特に二条関白・中川宮)と結びつき、朝廷と幕府の融和を促進しようとした。一会桑は、「朝敵」となった長州が混乱に陥っている間に速やかに将軍が上洛し、征長の指揮をとることが、朝廷尊崇・幕威回復になると考えた。東下する阿部正外に随従させて、将軍の急速上洛を促す使者(会津藩は公用人野村左兵衛・公用方広沢富次郎)を送った(こちら)。また、四国艦隊が下関を攻撃する前に長州を追討すべきだとも訴え、下関戦争後は、四国艦隊の早期長州退去を促すよう求める使者(会津藩は公用方柴秀治)を送った(こちら)。幕府が外国の力を借りて長州を討とうとしているという噂を危惧したためである。しかし、将軍上洛は進まず、8月下旬には、朝廷も人心に障りがあるとして将軍の急速上坂を命じた(こちら)ので、一会桑は朝命遵奉・将軍上坂を督促した(こちら)。また、征長総督問題については、徳川慶勝が就任を固辞し続けたため、肥後藩・会津藩・桑名藩の間で慶喜を総督にして速やかに征長を行うべきだとの論が起り(こちら)、会津藩・桑名藩が尾張と江戸に使者を遣わし、慶勝と幕府に周旋を行おうとした。

一方、8月下旬に柴秀治が京都に報告したところによると、江戸は京都とは「一体気候違居、兎角御因循」で、慶喜は「存外御疑被居候振合」だった。幕府の威権が近年の言路洞開によって損なわれたという考えから、「大塞蔽之極」になっており、「御役人御逢無之」、また江戸詰の藩士に対しても幕議の内容を「近頃は何も御洩無之」という状況だった(こちら)。8月6日に着府した野村左兵衛も老中に会えないでいた。


参考「会津藩庁記録」『稿本』(綱要DB)、『京都守護職始末』p111-112(2018/6/6)
関連:■守護職年表元治1年 テーマ別元治1■一橋慶喜の評判/嫌疑 ■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

【江】同日、肥後藩士森井惣四郎は、東下してきた諸藩の事情を報告しました

これまで途切れ途切れに紹介してきた報告書です。(てきとう訳)
京都において、会津・桑名・その他御譜代列藩が、公方様の一日も早い御進発のため、談合の上、各藩から御使者を差立て、公辺へ建白した儀は、先日の報告通りであるが、公辺で近々に御選びになった新徴組のうち、京都へ差し立てた新撰組と唱え申す浪士のうち、四人が当月九日に到着した。彼等の存意は御進発の御供衆に以前よりの知人がおり、これらの人々がいよいよ御奮発なされるよう「鼓舞誘引之内存」で下ってきた者である由。会津では、野村右兵衛(=左兵衛)が、「周旋之頭」となって東下中だが、「右新撰組等以て公辺へ迫」った由。もし(将軍上洛を)「御聞済」なければ(新選組が)「閣老衆を暗殺致抔」と何者かが唱えたのか、最近、水野閣老は御屋敷内を徹夜で巡回させ、警衛を厳重にしている由。当時、「公辺より会津を御疑に相成候事、如斯(かくのごとし)」で、何事も情実が貫徹せず、彼の藩は大いに歎息している。

参考:「森井惣四郎聞取書(9月13日条)/肥後藩国事史料」『稿本』(綱要DB 9月11日条 No72)(2018/6/6)
関連:◆9/9【江】(衛士前史)近藤・永倉ら、将軍進発御供衆の奮発鼓舞&隊士募集のため、江戸到着

【京】在京老中・淀藩主稲葉正邦、征長出兵準備のため、帰藩を許される(綱要)
【江】諏訪老中、越前藩に長門・周防の地図を交付(綱要)

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